風に吹かれる

風に吹かれる

まいにち色々ありすぎて、何がなんだかわからない日々。

そんな中でも無事「ケア&タッチ」のワークショップ終了しました。

10人で無事温かな輪を囲むことが出来ました。

参加してくれた皆さま、ありがとうございました!

午前中はセルフケアを中心に、じっくり自分の話をする時間も取りました。

午後は、ケアしたい相手に対する実践的ワークをしました。

それぞれバックグラウンドが違う方々の症状も違う人たちへのケアを短い時間でやるのってハードル高かったですが、みなさんのプレゼンスでいい感じの場になりました。

今度は、パーツ毎(下肢、上肢、骨盤、背中、肩首とか)のワークなどやれたら良いなあと思ってます。

今回日程が合わなかった方々も是非次回は一緒にからだの時間を過ごしましょうー。

実はケア&タッチは自分に一番必要なことかもしれないなあ。。。としみじみ。

専門的なケアをやってもらうのは、プロにお願いするのが良いと思うのだけど、このワークショップで目指すのは「家庭の医学」

自分でセルフケアを日常的にやることや、家族や友人が、おしゃべりをするようにお互いにケア出来る日常があればいいなあ、、。と思うのです。

ところで、先日セッションが終わってクライアントさんがまだ休んでいるときに台所で一息ついていたら、前の道路で「大丈夫ですか???」という大きな声が何度も聞こえました。

心配で外に出てみると、目の前の道路で、人が倒れている。。。どうもバイクで走っていて壁に激突したらしい。

意識を失っていたので、ヘルメットを外してすぐに頭をホールドして安定したポジションで救急車を持つことに。

てんかんの発作か、薬のせいかよくわからないけど(受診券と薬が入っていた)頭はヘルメットで保護されていたので、どうやら大丈夫そう。

クライアントさんを置いたままで、、、。やれやれ。古くからの慣れた方でよかった、、、。

それにしても、周りにいた人の連係プレー、、、。引っ越し業者のトラックの方は道路整理をし、前の家のおばちゃんは救急車への電話。通りかかった女の子は鋭敏?な聴覚の持ち主なのか「サイレンの音こちらから聞こえてきてます!」とかいち早く音を聞き分け。。。

救急車が来たのでその場を離れましたが、この前も家が分からなくなった認知症のおばあちゃんを保護したり、最近多いなこの感じ。

そしてそして、いつかやらかすだろうと思っていたけれど、帰ってきたら家の鍵を持って出るの忘れてたパターンで家に入れない。。。

息子がしょっちゅう同じことをやっていて、それを見習って台所の小窓から棒を突っ込んで鍵を開けるという荒業をやろうと思ったんだけど、小窓自体があかない。。。(後で聞いたら換気扇の羽の脇から棒を突っ込むらしいです、、とほほ)

こんなこともあろうかとカギを預けてある友人宅へ、TEL。

丁度電車でこちらに向かっているところだったので、我が家の階段で30分ほどぼーっと待つことに。

そしたら、こんな風に外でぼーっとすることがしばらくなかったなあと。

風に吹かれて夕焼けの空を見ながら、ぼーっとする時間、それがどんなに心地の良いことか!なんだかすごく気が休まる時間でした。

みなさん、忙しい時も立ち止まって、風に吹かれましょうね~~~(鍵を忘れるのはオススメしないけど)

 

 

 

 

 

 

カモシカに出会った!

カモシカに出会った!

カモシカ先週、青梅に遊びに行ってきました。

青梅在住の帽子作家の良子ちゃんと、青梅で自然農の畑を長年実践し畑の会を主催している真紀ちゃんに会いにいきました。

そしてその畑は、私が賢治の学校ってところで自分の探求をしていた頃に数回行ったことのあるのです。

その畑に行くのは実に20数年ぶり!

おんなじ畑とは思えないくらい、素敵に変貌していました。予報は雨だったにも関わらず、予想外に晴れた山の畑、気持ちよかった~~。

雨の多い今年でも、健気に育つ野菜たちの見学をさせてもらうと、鹿よけネットの向こうにお客さんが。。。

カモシカでした!

カモシカが畑にやってくるとは聞いていたけれど、こんな昼間(夜行性ではないらしい)に会えるなんて!

牛好きの私は、偶蹄目に目がないのできゅうううん。。。となってしまったのだけど、ネットも飛び越えて畑に入ってしまって、困っているらしいです。。

かわいいんだけど、、、私たちはネットの中にいて、その外ではもぐもぐ葉っぱを食べてました。

「その草で充分じゃない!畑に入ってこなくても!」とカモシカに話しかける真紀ちゃん。でもおいしいんだろうな。。。

そのあとは、みはらし台と呼ばれている丸太の上で、三人で1時間ほど気づきの基礎のワークをやりました。

青空や、頬に当たるそよ風や、お日様が何よりのサポートでした。

そして、名栗と呼ばれる場所までドライブして、ランチ、そして、温泉!

せせらぎの湯、、、、すっごく気持ちよかった!!

一日たっぷり青梅ツアーを満喫しました。

次の日起きたら、からだも頭もめちゃすっきりしていた。

自営業だけに、休みの日も半分仕事みたいなことをしてしまっているね~~、とは三人に共通することだったのだけど、やはり休みはしっかりとって、自然の中で自分の命の洗濯(と温泉に浸かる)はやらないといかんな~~と思った一日でした。

*網の間のカモシカ、、、、見えるかな???

 

 

成人!

成人!

金曜で息子が20歳になりました。

遂に大人になってしまった息子。。。

誕生日の日は、息子と二人でギリシャ料理を食べながら、合法的にビールを飲みました。

息子と飲む日が来るとは!

一人で子育てして、偉いね、、とかよく言われますが、全然一人ではなかったなと。

親は福岡の遠隔地だったので、日常的に子育てに関わってくることはなかったですが、近隣の友人はじめ、保育園で出会ったママ友にも大変お世話になりました。

国立市は「ひとり親ホームヘルプサービス」なる大変素晴らしい制度があって、子供を家で面倒みてくれたので、色々勉強してた時代、子供が小さい時は大学生のお兄ちゃんに遊んでもらったり、ご飯作ってもらったりしていました。

耳にピアスをごちゃっ、ってした若者がやって来た時があって、ちょっとビビったのだが、帰ってきたら、洗濯物がめちゃキレーに畳まれていて、焼きそばのクオリティが高すぎた。。。

彼のご両親は障害を持っていて、小さいころから家事をしっかりやってきたのだという。

先生を目指す大学生のお兄ちゃんのことが気にいって、いつも彼に来てもらっていたときもありました。

彼の家では節分にお菓子を撒くらしく、一度節分の日にそれをやってくれたことがあって、それ以来お菓子撒きが節分の行事になってます。

彼は、徐々に人生に迷い出し、悩みを聞くこともあったのだが、今や我が息子が同じように人生に迷っている。

沢山の人に支えられて、励ましてもらって、息子に優しくしてもらって、今がある。

息子の名前「タシ(太志と書きます)」はチベット語で吉兆という意味なのです。

チベットでは挨拶が「タシデレ」っていって「あなたに吉兆を捧げます」というような意味で、相手に吉兆が来ますように。的なニュアンスを含みます。

なので、「タシ」という名前を誰かが呼んでくれることは、私にとっては生きとし生けるものへの祈りのようなものなのです。

息子は大学生だけど、このまま大学にいてもいいのか?とか、自分の本当の道はなんなのか?ということに悩みながら生きてます。

悩みがないふりなんてせずに、迷っているということを言えるってすごいなって思います。

息子や私に関わってくれた全ての人に感謝します。

 

祈り4

祈り4

母のグリーフ(悼み、悲しみ)のワークを出来たのは、奇しくも私の誕生日の日でした。

その日を、自分の生まれた日というよりは、母が私を産んでくれた日と言う風に私には感じられました。

肉体があって、この世でこの地球上でいろんな旅をさせてもらえる。悲しみも喜びも体験させてもらうのは、母が私を産んでくれたからなのだと思うと、その日の朝は感謝の気持ちで一杯でした。

生きているときには、そんな風に思ってはいなかったのだな、、、と思うと申し訳ない気もしました。

その日はGAP(ゲシュタルトアウェアネスプラクティス)の経験者だけの1ディで、私は自分がじっくりと充分に時間を取って母に向き合う必要を感じていました。

自分自身の感覚にゆっくり触れていくとすぐに、胸が痛くてちぎれるようで涙がどんどん出てきました。

私が最後に見た母の姿は、人工呼吸器を挿入された母の姿でした。

その姿の痛々しさがどうしても頭から離れず、母を思い出すときはその姿がフラッシュバックしてきて、元気だった時の母の姿や、笑顔を思い浮かべることが出来なくなっていたのです。

GAPのやり方では、何にでも座布団に置いて直接話しかけることが出来ます。

その人(人以外でも、動物、建物、景色、夢の中に出てきたものでも、死者にでも)を目の前の座布団に置いて直接話しかけるという行為は、お互いの間に直接的な関係が出来ます。

母を目の前の座布団に置いただけで、ごめんね。。。という言葉と思いがあふれてきて、どんどん涙が出てきました。

母をあんな姿にはしたくなかった。自分の力でもっと元気にしてあげたかった。。。

それが叶わぬまま、母を逝かせてしまったことは、私の中の痛みとして大きく残っていました。

辛い気持ちの自分を一旦おいて、今度は母の座布団に入りました。

GAPではそれをenteringといいます。(自分の考えや見方を一旦自分の席において、座布団に置いた存在に入ること)

母になると、その座布団の上の母は人口呼吸器を挿入した母ではありませんでした。

若い時の母のように活力にあふれている母ではなく、老人になった母でしたが、穏やかでした。

その母は、私に向かって、「ひろみ、ごめんね、お母さんも死ぬとおもわんやったから、びっくりした。からだに気を付けて、風邪ひかんようにね。」

と言ったのです。

思えは母は私の心配ばかりしていました。若いころは、その心配がうっとうしかった。病気になって、自分のからだがしんどいときも、しばらく電話しないと、風邪でもひいているのじゃないか?と心配ばかりしていました。

座布団の上の母は、そんな母でした。

自分の席に戻って、その母の声を聞くと、今度は温かい涙があふれてきました。

そして、私の中の母が、生き生きした母に変わりました。

今も、時々空の上に母を感じると涙がでます。

料理や片付けがめっぽう苦手で、プライドが高く、人の目を気にして、すぐグダグダ悩む。

癇癪を起したり、わがままを言ったり、なんとも人間らしく困った母でしたが、母は私の大事な「お母さん」でした。

命に終わりがあることは、知っていたけれど悲しいものです。

呼吸が苦しく毎日大変だった5年間、本当にご苦労様、大変だったねと言いたいです。

治癒ということの何が正解か、未だに私は探求中です。

ただ、母が死を持って見せてくれたものが、まだ言葉や形にはならないけれど私の中に息づいています。

それを私が、命を輝かせ生命を全うしようとする、生きとし生ける誰かをサポートするために使えるように、この両手を使って、また精進していこう。ね、おかあさん。

 

祈り3

祈り3

母がいない日常生活が始まりました。

私たち家族はそれぞれの場所で、それぞれの悲しみを持ちつつも、それぞれの暮らしを始めました。

最初のうちは日に何度も母を思い出しては悲しみがあふれてきて、歩きながらやご飯を作りながら涙を流していました。

幸いだったなと思うのは、私にとって泣くという行為が友達だったこと。

この痛みと共にいる時間をたっぷりと取りました。

時には、母にもっとこうしてあげればよかったという思いや、悲しい思いをさせた時の母の顔が浮かんできて、そういう時は、胸が苦しくなりました。

胸が苦しくなったときはどうしたらいいの?と言っていた友人の顔が浮かんできて、胸が苦しいというのはこんなしんどい感覚なんだなあと、改めて痛みの苦しさに対する共感が湧いてきました。

時々は、道々の大きな木に寄りかかったりして、木に悲しみを慰めてもらったり、野菜を売っているところの犬のお友達を撫でながら、子供の頃によくやったように「お母さんが死んじゃってね、悲しいの・・・」と話を聞いてもらったりしました。

父の、葬儀の時の憔悴っぷりが心配で後ろ髪を引かれるように帰ってきたのですが、その2週間後また実家に戻ると、父なりに一人の時間をなんとか生きていました。

部屋がすっきりと片付いていて、仏壇にもちゃんと花が飾られているのをみてほっとしました。

毎日きちんと水とお茶をあげ、線香も絶やさず、母を悼んでいました。

携帯などいらん!という父を説得し、新しく携帯を契約し、実家にいる間に対面で「もしもし」とか糸電話のように練習したおかげで、なんとか使えるようになりました。

私が電話出来ない時は、息子が協力して電話してくれたりして、なんとか毎日途切れず話せてます。

温かくなってきたので、毎日草取りもしているらしい。

本当に庭があってよかったなと思う。祖父が開墾して、柿の木や梅の木を植え畑を耕してきた土地は、今父に引き継がれ、色々丹精込めて愛してきた場所。

足腰が弱ってきて、なかなか外に出れなくなってきていたのだけど、一人になってまた少しづつ外仕事をするようになってきたらしい。

イノシシが出てからすっかり畑はやらなくなっていたけど、私が「トマト食べたいから、トマト植えて~~!」とお願いしたら、一畝を起して植えてくれたらしい。きゅん。

そして私も、やっと自身のグリーフワークをやりました。

それはまた次回。

 

 

 

祈りその2

祈りその2

葬儀は家族だけで行うと生前母は言っていたそうで、父と姉と姉の子供2人、そして私と私の息子の6人だけで行いました。

田舎なので、「町内放送」なるものがあって、「○○さんが死亡しました。葬儀はいついつです」という有線放送をされるのを母は「自分の時は絶対やめてほしい」と言っていたそうで、親戚にも、知り合いにも葬儀が終わってからお知らせすることになりました。

母が逝ってからの一連の流れを家族として切り盛りするのは何もかも初めてで驚くことばかり。

葬儀屋さんとの打ち合わせでは、棺桶から骨壺まで値段とランクが決まっていて、姉と二人それを一つ一つ決めていきました。

家は浄土宗で、代々檀家のお寺の住職さんとその息子さんが2人で来てくれました。

住職さんは御年90歳。耳は遠いもののの足腰もしっかりしていて、母のこともよく知っていて思い出話をしながら、とても心のこもったお経をあげてくれました。

息子も葬儀に参列するのは初めてで、通夜~葬儀~初七日と衣装も装備も違うのに驚いて「ドラクエかと思った・・・」と言っていました。

息子は、丁度髪をドレッドにしていて、それを初めてめてみた父はさぞ驚いたでしょうが、母が亡くなった衝撃が強すぎて、髪型くらい難なくクリアーしていました。

息子は、じーちゃんがばーちゃんの棺桶を閉める前に花を入れていくときに「また会いましょう」と言った一言が一番心に響いたと言っていました。

花が好きだった母が、全身が埋もれてしまうくらいの花に囲まれているのはとてもきれいでした。

斎場までは、今川と言う川沿いを葬儀屋さんのマイクロバスで30分ほど行きました。雨が降っていて、とても寒かった。河川敷には、菜の花が満開に咲いていて、川には、鴨や白鷺がたくさんいました。

斎場は桜で有名な場所らしく、かつて父と母が斎場としらずに桜の美しさに公園かと思って通りかかったところらしい。ただその時は、まだつぼみは固いままでした。

火葬する前にまたお経をあげてもらい、扉が閉まった時はすごくすごく悲しかったけれど、火葬が終わって骨になった母をみたら、もうそれはモノと化していて、ips研究所で働いている姉と、ボディワーカーの私は全身の骨格につい食いついてしまい、これが側頭骨か・・・などとまじまじと観察してしまったのでした。

火葬を待っている間、さすが九州らしくどのグループもめちゃくちゃお酒を飲みながら盛り上がっていて、大声でしゃべる声が広間に響いていました。

骨壺に収めるのに職員の人が、骨を擂粉木のようなもので無造作にガシガシ砕いているのが嫌だったけれど、この人の仕事も大変な仕事だ。。。と思い、我慢しました。

実家ではいつも2階で寝ていたのだけど、母が搬送されて以来、父が心配で母のベッドで寝ていました。

ICUで母に、死んだら私のとこに会いにきてね、とお願いしておいたのだけど、葬儀の翌日まだ夜が明けきらない時間にふと目が覚めるとガラス戸に面した庭の砂利の上を歩く足音がしました。

そしてその足音は玄関まで来ると、ぎーっという玄関の戸を開ける音がしました。

きっと母だ。。。即座にそう思いました

肉体の無くなった母は、息苦しくもなく軽々と、最後の方は歩き回ることもできなくなっていた庭を歩き回っていたに違いない。

その砂利の音を聞いて、私は安心してまたぐっすりと寝てしまったのでした。