祈りその2

祈りその2

葬儀は家族だけで行うと生前母は言っていたそうで、父と姉と姉の子供2人、そして私と私の息子の6人だけで行いました。

田舎なので、「町内放送」なるものがあって、「○○さんが死亡しました。葬儀はいついつです」という有線放送をされるのを母は「自分の時は絶対やめてほしい」と言っていたそうで、親戚にも、知り合いにも葬儀が終わってからお知らせすることになりました。

母が逝ってからの一連の流れを家族として切り盛りするのは何もかも初めてで驚くことばかり。

葬儀屋さんとの打ち合わせでは、棺桶から骨壺まで値段とランクが決まっていて、姉と二人それを一つ一つ決めていきました。

家は浄土宗で、代々檀家のお寺の住職さんとその息子さんが2人で来てくれました。

住職さんは御年90歳。耳は遠いもののの足腰もしっかりしていて、母のこともよく知っていて思い出話をしながら、とても心のこもったお経をあげてくれました。

息子も葬儀に参列するのは初めてで、通夜~葬儀~初七日と衣装も装備も違うのに驚いて「ドラクエかと思った・・・」と言っていました。

息子は、丁度髪をドレッドにしていて、それを初めてめてみた父はさぞ驚いたでしょうが、母が亡くなった衝撃が強すぎて、髪型くらい難なくクリアーしていました。

息子は、じーちゃんがばーちゃんの棺桶を閉める前に花を入れていくときに「また会いましょう」と言った一言が一番心に響いたと言っていました。

花が好きだった母が、全身が埋もれてしまうくらいの花に囲まれているのはとてもきれいでした。

斎場までは、今川と言う川沿いを葬儀屋さんのマイクロバスで30分ほど行きました。雨が降っていて、とても寒かった。河川敷には、菜の花が満開に咲いていて、川には、鴨や白鷺がたくさんいました。

斎場は桜で有名な場所らしく、かつて父と母が斎場としらずに桜の美しさに公園かと思って通りかかったところらしい。ただその時は、まだつぼみは固いままでした。

火葬する前にまたお経をあげてもらい、扉が閉まった時はすごくすごく悲しかったけれど、火葬が終わって骨になった母をみたら、もうそれはモノと化していて、ips研究所で働いている姉と、ボディワーカーの私は全身の骨格につい食いついてしまい、これが側頭骨か・・・などとまじまじと観察してしまったのでした。

火葬を待っている間、さすが九州らしくどのグループもめちゃくちゃお酒を飲みながら盛り上がっていて、大声でしゃべる声が広間に響いていました。

骨壺に収めるのに職員の人が、骨を擂粉木のようなもので無造作にガシガシ砕いているのが嫌だったけれど、この人の仕事も大変な仕事だ。。。と思い、我慢しました。

実家ではいつも2階で寝ていたのだけど、母が搬送されて以来、父が心配で母のベッドで寝ていました。

ICUで母に、死んだら私のとこに会いにきてね、とお願いしておいたのだけど、葬儀の翌日まだ夜が明けきらない時間にふと目が覚めるとガラス戸に面した庭の砂利の上を歩く足音がしました。

そしてその足音は玄関まで来ると、ぎーっという玄関の戸を開ける音がしました。

きっと母だ。。。即座にそう思いました

肉体の無くなった母は、息苦しくもなく軽々と、最後の方は歩き回ることもできなくなっていた庭を歩き回っていたに違いない。

その砂利の音を聞いて、私は安心してまたぐっすりと寝てしまったのでした。

 

 

 

祈りその1

祈りその1

 

3月1日に母が急逝しました。四十九日を終え、母はお墓に収まりました。

天気が良い時には霊山の英彦山も見渡せる、眺めの良い場所に母の遺骨を納めて、ひと段落着いたと同時に、もっと頻繁に帰ってあげればよかった。セッションしてあげたかったという後悔があります。

この思いと共に、今からの人生を生きていくのでしょう。そして必要な誰かのためにこの両手を使って行きます。

自分への備忘録として、徐々に母の死のことを書いていきたいと思います。

2月27日の夕方、ケアマネさんから母が救急搬送されたという一報をもらったときは、まだ自分の母がこの世からいなくなるという実感がわきませんでした。

自転車で移動しながら、ありのままの現状を話してくださいとお願いすると「救急隊員の方が心臓マッサージをしていました」というので、すぐ家に帰ってなんとか病院に連絡をとると父が一言「もう脈が止まりよう」というので、とりあえずのものをバックに詰め、姉と息子に電話しました。

ベランダから見送る息子が、「まだ死ぬと決まったわけじゃないから」と言ってくれました。

実家は福岡なので、空港に向かいながら震える手で予約を取り、その日の夕方以降のクライアントさんに片っ端からメールをしていきました。

飛行機の中では、スチュワーデスさんに、母が危篤だから一番に出して欲しいと言うかどうかをずっと考えていて、でも結局言えませんでした。

空港を出て、タクシー乗り場まで走って「OO病院まで」というと、察した運転手さんが「急ぎですか?」というので「そうです」と言うと「じゃあ、近道をしますね!」と言ってくれてそれを聞いた途端に涙があふれて止まらなくなりました。

タクシーの中でずっと泣き続けている私を可哀想に思ったのか、雨の道をぶっ飛ばしてくれた運転手さんは、病院の非常口までついてきてくれて、しかも端数をおまけしてくれました。

ICUに着くと母は生きていました、しかし心臓が80分も停止していたせいで、脳死状態、意識はありませんでした。

母は5年前から原発性呼吸不全という原因不明の呼吸苦を患って在宅酸素をしていました。

その日は、週に1度のリハビリデイで、きついから行きたくないと言ってたそうですが、3月は私が帰る予定だったのでお休みするから頑張って行こうといって、ディサービスに行って具合が悪くなり、自宅に帰った時はもうタクシーから降りることが出来なかったそうです。

その日から2日間死にゆく母と、バイオをしたり、清拭を看護師さんと一緒にしたり、泣いたりしながら過ごしました。

田舎のICUは下が池になっていて、大きな窓から山や木やその池が見渡せるそんな気持ちのよい場所でした。

そこで、死にゆく母にバイオをやっていると、今までの母には起こりえなかったような金色の輝きを感じて、また涙が出てきました。

バイオダイナミクスというこの施術を通じて、母と交流できる手段があってよかったと芯から思いました。

そして次の日正午、母は永眠しました。

一緒に過ごした1日半は早かったような、長かったような。。。。心拍数が徐々に減っていくモニターの動きと、人工呼吸器の音を聞きながら、段々母の死を待っている気がして苦しくなったあの時間。

そして、病院に泊まり込んだというのに、父があまりに憔悴してるので一度休ませようとすべく家に帰ったらすぐ急変して、あっと言う間に逝ってしまいました。

最後を看取ったのは姉でした。家族の中で一番忙しく、母と過ごす時間が一番少なかった姉が一人で母を看取ったのは不思議な縁だなと思います。

死後の母の化粧をしながらその話をすると、納棺師の方に「死ぬ姿を見せたくない人には見せないもんらしいですよ。」といわれ、そうか。。。。私と父には耐えられない気がしたのかなあと思ったのでした。

祈り

 

 

 

 

 

GAPとバイオ

GAPとバイオ

本当に超久々のんびり週末です。

なので、遂に確定申告に着手します。。。。

1月後半から半ばまでずーっとワークショップで、家のことは全然手つかず、確定申告も全然手をつけれなかったので。

その間にも、大学生なのに受験しなおしたいとセンター試験を受けた息子は、ある日久々に家に帰ってきたらドレッドヘアになっていたり。。。

今、家はカオスです。。。

とまあ、それはさておき、4月からGAP(ゲシュタル トアウェアネス プラクティス)の連続コースをやる予定なので、その打ち合わせに行ってきました。

本拠地が中央区あたりなので、国立からは結構遠い。。。

でも打ち合わせ場所に向かう道すがら、多摩川とは違う滔々と水を湛える隅田川沿いを歩くのはかなり気持ちのよい時間でした。

やっぱり川、好きだなあ。一番好きなのはガンジス河だのだけど、、、。

川のそばに住んで、毎日川沿いを散歩できたらすごく幸せだろうなあと思ってしまった。

川の流れを見ていると自分の中の液体も澄んでくるような感覚になっていくのです。

連続コースの打ち合わせ、あっという間の時間で、その後は西荻でバイオの勉強会。

先輩方に学びをシェアしてもらったり、瞑想的実習をしたりして、一日たっぷり充実時間。

GAP、バイオ、GAP、バイオ、この2つが私の人生の半分は占めているなあ。。。

ゲシュタルトアウェアネスプラクティス
連日ワークでちょっとぐったり顔

 

新年あけましておめでとうございます。

新年あけましておめでとうございます。

新年あけましておめでとうございます!

早いものでもう七草粥も終わりましたね。

私は新年1日は毎年恒例の、近隣の友人たちと我が家新年会でした。

毎年割と真面目におせちを作るのですが、今回も大みそかに朝からガンガンおせちを作ってました。

数の子、お煮しめ、なます、田作り、黒豆、栗きんとん、焼き豚、などなど。。。

ただ今年は栗きんとんの裏ごしはパスさせてもらいました。

実は裏ごし大の苦手(ちなみに大根おろしもかなり嫌い)地道にごしごしとかが苦手なのかも????

なめらかさには欠けるものの、美味しく出来たので来年からは裏ごしFREEにしようかな。

今年は大掃除が間に合わず、新年会はセッションルームで行いました。マッサージテーブルの上で。

治療から食卓まで便利だわ、マッサージテーブル!

新年2日は、ipadに取りためた写真をパソコンに取り込む作業をやりました。

ずっと手つかずで、溜まり切ってたので。

そしたら容量が空いたので、パソコンにつないで何の気なしに新しいOSに更新をしたのですが、それが。。。。。更新に失敗して何をやってもipadが起動しなくなってしまったのです。

私はガラケーとipadの2台持ちなので、ipadが使えなくて家のパソコンでしかメールとか見れないのは、不自由極まりない!

appleの遠隔電話サポートも試したけどダメで、appleのお店は予約でいっぱいでとれず。

そうしているうちに自分がどれだけ、ネットに依存していたかがわかってきました。

用もないのに開いてフェイスブックやツイッター見たり、メールチェックしたり。

ほんの10数年前にはケータイも持ってなかったのに。

そうすることで、自分を忙しくしていたことを反省。。。。

数日後に近所のお店で直してもらって、今は復活していますが、ネットとの付き合い方を見直し中です。

そんなに繋がらなくてもいいよね~~と今は距離を置いてます。

すろーで行こう!が今年のスローガンかな、、、今年の始まりからなんだか飛ばしてる気もしますが。

そんなこんなですが、今年もナンディルームをどうぞよろしくお願いします。

スローな時間を過ごしに来てくださいね。

 

共感セッション

共感セッション

年も押し迫った先日、共感セッションを受けました。

プラクティショナーは福岡県赤村在住JIN Akira さん。

スローでオーガニックな暮らし方、仕事をサポートするスロービジネススクールがご縁で知り合ったのはもう10年以上前です。

ごとーさん(と私は呼んでいいます)も私の中では学びを実践する人。昨今はNVC(非暴力コミュニケーション)を深く学んで、それを暮らしや社会に活かしている人です。

飄々とした風貌と在り方ながら、芯の通ったお方。

ワークショップもやっています。

赤村でクリキンディーと言うオーガニックcafeをやっていた頃は、コーディネートしていただいて、何度か私もワークショップもやらせてもらいました。

赤ちゃんが生まれた時は、家族セッションもやらせてもらったり、福岡の大切な友人になってます。

その彼の共感コーチング「自分を共感で包むギフトセッション」100人ギフトセッション

を受けてきました。といっても赤村とのビデオ通話。

「ビデオ」というところに一瞬ひるみかけましたが、電話より、顔が見れるのがライブ感と安心感につながるというのがすごく良かったです。

お題は、仕事のことで、自分がずっと抱えていた課題について。

それに向き合わねば!と思いつつ、面倒だったり億劫だったりで、隅っこに置いていたことに向き合いました。

ごとーさんが自分のそのままを受け止めてくれて、そしてそれを鏡のように返してくれることで、自分自身が開いていく。

まずは、自分を変えようとするより、自分自身を良く知る。GAPにも通じるその在り方がいまここにいるためのアンカー(錨)になってくれました。

自分で自分の課題に取り組むのもよいけれど、誰かのサポートを受けるのは自分にとても必要なことだ。とそう思えました。

受け止めてくれつつ、私の全体から出てきたことを踏まえての新たな提案もあったりして、来年に向けて新しいビジョンが浮かびつつあります。

ごとーさんの聞き方から、私も学ばせてもらいました。私もこんな風に人を、そして自分自身の声も聞きたいなあ。

共感セッションお試し無料セッションまだやっているようです。

興味がある方は是非!共感コーチング→http://beart-nowhere.net/empathic_coaching/

 

ブログをご覧のみなさま、セッションに訪れていただいたみなさま今年一年ありがとうございました。良い年の瀬をおむかえください。

来年またお会いできるのを楽しみにしています。

 

懐かしの場所

懐かしの場所

12月17日は、かつて良く行っていた西荻のレゲエバーにて、とある人の命日でした。
亡くなってから20年も経つらしい。

毎年命日に行っているライブに「ひろみちゃん、バンスリ(インドの笛)吹いてみない?」とインド友達に誘われたので、20数年ぶりにディープスポットバボイの青い扉を開けました。。

店主おねえに会うのも超久しぶりで、20代の頃インドと日本を行き来していて西荻に住んでいたころ、夜な夜な飲みに行っていたバボイ。

亡くなったそのお方に色々突っ込まれては、終いには私はいつも泣いていた若かった私。
泣くくらい突っ込んでおいて、最後には励まされてまた泣いてしまうのだ。。

バンスリも、最近吹くのを復活したとは言っても、息子が産まれてからはほとんど手つかずだったので、人前で演奏するのも超久しぶり。
ディープスポットのぎゅうぎゅうな店内で、ディープな人たちに囲まれて、唇がぶるぶる震えて、音がかすれて割れて演奏はもう散々でした。
亡くなったあの人が絶対来ている店内で、ディープなみなさんの温かなまなざしに、またも泣かされそうになる。

自分はさておき、ディープな皆さんの全ての演奏、もうかっこよすぎた。しびれた!!!

 

懐かしすぎて、楽しくて、煙に燻された一夜だった。
人生ってあっという間に過ぎてしまうのね。
そして音楽っていいなあ。。