母がいない日常生活が始まりました。
私たち家族はそれぞれの場所で、それぞれの悲しみを持ちつつも、それぞれの暮らしを始めました。
最初のうちは日に何度も母を思い出しては悲しみがあふれてきて、歩きながらやご飯を作りながら涙を流していました。
幸いだったなと思うのは、私にとって泣くという行為が友達だったこと。
この痛みと共にいる時間をたっぷりと取りました。
時には、母にもっとこうしてあげればよかったという思いや、悲しい思いをさせた時の母の顔が浮かんできて、そういう時は、胸が苦しくなりました。
胸が苦しくなったときはどうしたらいいの?と言っていた友人の顔が浮かんできて、胸が苦しいというのはこんなしんどい感覚なんだなあと、改めて痛みの苦しさに対する共感が湧いてきました。
時々は、道々の大きな木に寄りかかったりして、木に悲しみを慰めてもらったり、野菜を売っているところの犬のお友達を撫でながら、子供の頃によくやったように「お母さんが死んじゃってね、悲しいの・・・」と話を聞いてもらったりしました。
父の、葬儀の時の憔悴っぷりが心配で後ろ髪を引かれるように帰ってきたのですが、その2週間後また実家に戻ると、父なりに一人の時間をなんとか生きていました。
部屋がすっきりと片付いていて、仏壇にもちゃんと花が飾られているのをみてほっとしました。
毎日きちんと水とお茶をあげ、線香も絶やさず、母を悼んでいました。
携帯などいらん!という父を説得し、新しく携帯を契約し、実家にいる間に対面で「もしもし」とか糸電話のように練習したおかげで、なんとか使えるようになりました。
私が電話出来ない時は、息子が協力して電話してくれたりして、なんとか毎日途切れず話せてます。
温かくなってきたので、毎日草取りもしているらしい。
本当に庭があってよかったなと思う。祖父が開墾して、柿の木や梅の木を植え畑を耕してきた土地は、今父に引き継がれ、色々丹精込めて愛してきた場所。
足腰が弱ってきて、なかなか外に出れなくなってきていたのだけど、一人になってまた少しづつ外仕事をするようになってきたらしい。
イノシシが出てからすっかり畑はやらなくなっていたけど、私が「トマト食べたいから、トマト植えて~~!」とお願いしたら、一畝を起して植えてくれたらしい。きゅん。
そして私も、やっと自身のグリーフワークをやりました。
それはまた次回。