フラワーエッセンスとバイオダイナミクスのコラボセッション@トネリコ

フラワーエッセンスとバイオダイナミクスのコラボセッション@トネリコ

古くからの友人で茅ヶ崎の隠れ家サロン「トネリコ」を主宰しているフラワーエッセンスセラピストの吉田地子さんとコラボセッションをします。

地子さんは、おしゃれで凛としててとても素敵な女性です。

トネリコもかなり素敵な一軒家です。お値段もお得なので、湘南方面の方は是非二人のコラボを体験しにお越しください。

スペーストネリコHP→https://space-tonerico.jimdo.com/

以下地子さんが書いてくれた案内文です。↓

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トネリコ初の企画
「手の癒し 花の癒し
〜バイオダイナミクスオステオパシーとフラワーエッセンス」
国立のナンディルームからボディワーカーの中川洋美さんをお迎えして、トネリコのフラワーエッセンスとコラボセッションをおこないます。

洋美さんとの出会いは十数前、とあるボディワークのコースでした。
ペアを組んで「慈愛のタッチ」をしたのですが、すでにボディワーカーとして活動していた洋美さんのタッチは衝撃でした。
「こんな風に人にふれてもらったことはない」
と感動し、今でもそれを思い出す事ができます。
テクニックも大事かもしれないけれど、手ですよ、手!
植物を育てるのが上手な人を「緑の指を持つ人」
と言ったり、人の命を次々と救う医師を「ゴッドハンド」と言いますね。
洋美さんの手を、どうぞ体験して下さい。

フラワーエッセンスについては私、吉田地子が担当します。
20年間、家族間トラウマを中心に扱うクリニックで、グループセッションをさせていただいています。
メンバーの方たちからは
「ショック療法」と言われています(笑)
理由を聞くと、「ズバリと見抜かれる」からだそう。
トネリコでも、個人セッション、グループをリードさせていただいています。
主役は自然界の地水火風を十分に蓄えた花の生命エネルギーです。お話を聞かせていただきながら、エネルギーを感じ取り、調合ボトルを作らせていただきますね。

日程:6月28日(金)

場所:スペーストネリコ(茅ヶ崎よりバス:お申し込みの際に詳細を送ります)

お一人様、
バイオダイナミクスオステオパシー30分

フラワーエッセンス30分で¥7000
というお得な企画です。

11:00〜12:00 予約済み
13:00〜14:00予約済み
14:00〜15:00予約済み
15:00〜16:00予約済み
16:00〜17:00予約済み
17:00〜18:00

ご予約は予約お問い合わせフォームにコラボ企画希望とかいて、時間は第3希望までをお知らせください。定員になり次第受付終了となります。

 

祈り4

祈り4

母のグリーフ(悼み、悲しみ)のワークを出来たのは、奇しくも私の誕生日の日でした。

その日を、自分の生まれた日というよりは、母が私を産んでくれた日と言う風に私には感じられました。

肉体があって、この世でこの地球上でいろんな旅をさせてもらえる。悲しみも喜びも体験させてもらうのは、母が私を産んでくれたからなのだと思うと、その日の朝は感謝の気持ちで一杯でした。

生きているときには、そんな風に思ってはいなかったのだな、、、と思うと申し訳ない気もしました。

その日はGAP(ゲシュタルトアウェアネスプラクティス)の経験者だけの1ディで、私は自分がじっくりと充分に時間を取って母に向き合う必要を感じていました。

自分自身の感覚にゆっくり触れていくとすぐに、胸が痛くてちぎれるようで涙がどんどん出てきました。

私が最後に見た母の姿は、人工呼吸器を挿入された母の姿でした。

その姿の痛々しさがどうしても頭から離れず、母を思い出すときはその姿がフラッシュバックしてきて、元気だった時の母の姿や、笑顔を思い浮かべることが出来なくなっていたのです。

GAPのやり方では、何にでも座布団に置いて直接話しかけることが出来ます。

その人(人以外でも、動物、建物、景色、夢の中に出てきたものでも、死者にでも)を目の前の座布団に置いて直接話しかけるという行為は、お互いの間に直接的な関係が出来ます。

母を目の前の座布団に置いただけで、ごめんね。。。という言葉と思いがあふれてきて、どんどん涙が出てきました。

母をあんな姿にはしたくなかった。自分の力でもっと元気にしてあげたかった。。。

それが叶わぬまま、母を逝かせてしまったことは、私の中の痛みとして大きく残っていました。

辛い気持ちの自分を一旦おいて、今度は母の座布団に入りました。

GAPではそれをenteringといいます。(自分の考えや見方を一旦自分の席において、座布団に置いた存在に入ること)

母になると、その座布団の上の母は人口呼吸器を挿入した母ではありませんでした。

若い時の母のように活力にあふれている母ではなく、老人になった母でしたが、穏やかでした。

その母は、私に向かって、「ひろみ、ごめんね、お母さんも死ぬとおもわんやったから、びっくりした。からだに気を付けて、風邪ひかんようにね。」

と言ったのです。

思えは母は私の心配ばかりしていました。若いころは、その心配がうっとうしかった。病気になって、自分のからだがしんどいときも、しばらく電話しないと、風邪でもひいているのじゃないか?と心配ばかりしていました。

座布団の上の母は、そんな母でした。

自分の席に戻って、その母の声を聞くと、今度は温かい涙があふれてきました。

そして、私の中の母が、生き生きした母に変わりました。

今も、時々空の上に母を感じると涙がでます。

料理や片付けがめっぽう苦手で、プライドが高く、人の目を気にして、すぐグダグダ悩む。

癇癪を起したり、わがままを言ったり、なんとも人間らしく困った母でしたが、母は私の大事な「お母さん」でした。

命に終わりがあることは、知っていたけれど悲しいものです。

呼吸が苦しく毎日大変だった5年間、本当にご苦労様、大変だったねと言いたいです。

治癒ということの何が正解か、未だに私は探求中です。

ただ、母が死を持って見せてくれたものが、まだ言葉や形にはならないけれど私の中に息づいています。

それを私が、命を輝かせ生命を全うしようとする、生きとし生ける誰かをサポートするために使えるように、この両手を使って、また精進していこう。ね、おかあさん。

 

祈り3

祈り3

母がいない日常生活が始まりました。

私たち家族はそれぞれの場所で、それぞれの悲しみを持ちつつも、それぞれの暮らしを始めました。

最初のうちは日に何度も母を思い出しては悲しみがあふれてきて、歩きながらやご飯を作りながら涙を流していました。

幸いだったなと思うのは、私にとって泣くという行為が友達だったこと。

この痛みと共にいる時間をたっぷりと取りました。

時には、母にもっとこうしてあげればよかったという思いや、悲しい思いをさせた時の母の顔が浮かんできて、そういう時は、胸が苦しくなりました。

胸が苦しくなったときはどうしたらいいの?と言っていた友人の顔が浮かんできて、胸が苦しいというのはこんなしんどい感覚なんだなあと、改めて痛みの苦しさに対する共感が湧いてきました。

時々は、道々の大きな木に寄りかかったりして、木に悲しみを慰めてもらったり、野菜を売っているところの犬のお友達を撫でながら、子供の頃によくやったように「お母さんが死んじゃってね、悲しいの・・・」と話を聞いてもらったりしました。

父の、葬儀の時の憔悴っぷりが心配で後ろ髪を引かれるように帰ってきたのですが、その2週間後また実家に戻ると、父なりに一人の時間をなんとか生きていました。

部屋がすっきりと片付いていて、仏壇にもちゃんと花が飾られているのをみてほっとしました。

毎日きちんと水とお茶をあげ、線香も絶やさず、母を悼んでいました。

携帯などいらん!という父を説得し、新しく携帯を契約し、実家にいる間に対面で「もしもし」とか糸電話のように練習したおかげで、なんとか使えるようになりました。

私が電話出来ない時は、息子が協力して電話してくれたりして、なんとか毎日途切れず話せてます。

温かくなってきたので、毎日草取りもしているらしい。

本当に庭があってよかったなと思う。祖父が開墾して、柿の木や梅の木を植え畑を耕してきた土地は、今父に引き継がれ、色々丹精込めて愛してきた場所。

足腰が弱ってきて、なかなか外に出れなくなってきていたのだけど、一人になってまた少しづつ外仕事をするようになってきたらしい。

イノシシが出てからすっかり畑はやらなくなっていたけど、私が「トマト食べたいから、トマト植えて~~!」とお願いしたら、一畝を起して植えてくれたらしい。きゅん。

そして私も、やっと自身のグリーフワークをやりました。

それはまた次回。

 

 

 

祈りその2

祈りその2

葬儀は家族だけで行うと生前母は言っていたそうで、父と姉と姉の子供2人、そして私と私の息子の6人だけで行いました。

田舎なので、「町内放送」なるものがあって、「○○さんが死亡しました。葬儀はいついつです」という有線放送をされるのを母は「自分の時は絶対やめてほしい」と言っていたそうで、親戚にも、知り合いにも葬儀が終わってからお知らせすることになりました。

母が逝ってからの一連の流れを家族として切り盛りするのは何もかも初めてで驚くことばかり。

葬儀屋さんとの打ち合わせでは、棺桶から骨壺まで値段とランクが決まっていて、姉と二人それを一つ一つ決めていきました。

家は浄土宗で、代々檀家のお寺の住職さんとその息子さんが2人で来てくれました。

住職さんは御年90歳。耳は遠いもののの足腰もしっかりしていて、母のこともよく知っていて思い出話をしながら、とても心のこもったお経をあげてくれました。

息子も葬儀に参列するのは初めてで、通夜~葬儀~初七日と衣装も装備も違うのに驚いて「ドラクエかと思った・・・」と言っていました。

息子は、丁度髪をドレッドにしていて、それを初めてめてみた父はさぞ驚いたでしょうが、母が亡くなった衝撃が強すぎて、髪型くらい難なくクリアーしていました。

息子は、じーちゃんがばーちゃんの棺桶を閉める前に花を入れていくときに「また会いましょう」と言った一言が一番心に響いたと言っていました。

花が好きだった母が、全身が埋もれてしまうくらいの花に囲まれているのはとてもきれいでした。

斎場までは、今川と言う川沿いを葬儀屋さんのマイクロバスで30分ほど行きました。雨が降っていて、とても寒かった。河川敷には、菜の花が満開に咲いていて、川には、鴨や白鷺がたくさんいました。

斎場は桜で有名な場所らしく、かつて父と母が斎場としらずに桜の美しさに公園かと思って通りかかったところらしい。ただその時は、まだつぼみは固いままでした。

火葬する前にまたお経をあげてもらい、扉が閉まった時はすごくすごく悲しかったけれど、火葬が終わって骨になった母をみたら、もうそれはモノと化していて、ips研究所で働いている姉と、ボディワーカーの私は全身の骨格につい食いついてしまい、これが側頭骨か・・・などとまじまじと観察してしまったのでした。

火葬を待っている間、さすが九州らしくどのグループもめちゃくちゃお酒を飲みながら盛り上がっていて、大声でしゃべる声が広間に響いていました。

骨壺に収めるのに職員の人が、骨を擂粉木のようなもので無造作にガシガシ砕いているのが嫌だったけれど、この人の仕事も大変な仕事だ。。。と思い、我慢しました。

実家ではいつも2階で寝ていたのだけど、母が搬送されて以来、父が心配で母のベッドで寝ていました。

ICUで母に、死んだら私のとこに会いにきてね、とお願いしておいたのだけど、葬儀の翌日まだ夜が明けきらない時間にふと目が覚めるとガラス戸に面した庭の砂利の上を歩く足音がしました。

そしてその足音は玄関まで来ると、ぎーっという玄関の戸を開ける音がしました。

きっと母だ。。。即座にそう思いました

肉体の無くなった母は、息苦しくもなく軽々と、最後の方は歩き回ることもできなくなっていた庭を歩き回っていたに違いない。

その砂利の音を聞いて、私は安心してまたぐっすりと寝てしまったのでした。

 

 

 

祈りその1

祈りその1

 

3月1日に母が急逝しました。四十九日を終え、母はお墓に収まりました。

天気が良い時には霊山の英彦山も見渡せる、眺めの良い場所に母の遺骨を納めて、ひと段落着いたと同時に、もっと頻繁に帰ってあげればよかった。セッションしてあげたかったという後悔があります。

この思いと共に、今からの人生を生きていくのでしょう。そして必要な誰かのためにこの両手を使って行きます。

自分への備忘録として、徐々に母の死のことを書いていきたいと思います。

2月27日の夕方、ケアマネさんから母が救急搬送されたという一報をもらったときは、まだ自分の母がこの世からいなくなるという実感がわきませんでした。

自転車で移動しながら、ありのままの現状を話してくださいとお願いすると「救急隊員の方が心臓マッサージをしていました」というので、すぐ家に帰ってなんとか病院に連絡をとると父が一言「もう脈が止まりよう」というので、とりあえずのものをバックに詰め、姉と息子に電話しました。

ベランダから見送る息子が、「まだ死ぬと決まったわけじゃないから」と言ってくれました。

実家は福岡なので、空港に向かいながら震える手で予約を取り、その日の夕方以降のクライアントさんに片っ端からメールをしていきました。

飛行機の中では、スチュワーデスさんに、母が危篤だから一番に出して欲しいと言うかどうかをずっと考えていて、でも結局言えませんでした。

空港を出て、タクシー乗り場まで走って「OO病院まで」というと、察した運転手さんが「急ぎですか?」というので「そうです」と言うと「じゃあ、近道をしますね!」と言ってくれてそれを聞いた途端に涙があふれて止まらなくなりました。

タクシーの中でずっと泣き続けている私を可哀想に思ったのか、雨の道をぶっ飛ばしてくれた運転手さんは、病院の非常口までついてきてくれて、しかも端数をおまけしてくれました。

ICUに着くと母は生きていました、しかし心臓が80分も停止していたせいで、脳死状態、意識はありませんでした。

母は5年前から原発性呼吸不全という原因不明の呼吸苦を患って在宅酸素をしていました。

その日は、週に1度のリハビリデイで、きついから行きたくないと言ってたそうですが、3月は私が帰る予定だったのでお休みするから頑張って行こうといって、ディサービスに行って具合が悪くなり、自宅に帰った時はもうタクシーから降りることが出来なかったそうです。

その日から2日間死にゆく母と、バイオをしたり、清拭を看護師さんと一緒にしたり、泣いたりしながら過ごしました。

田舎のICUは下が池になっていて、大きな窓から山や木やその池が見渡せるそんな気持ちのよい場所でした。

そこで、死にゆく母にバイオをやっていると、今までの母には起こりえなかったような金色の輝きを感じて、また涙が出てきました。

バイオダイナミクスというこの施術を通じて、母と交流できる手段があってよかったと芯から思いました。

そして次の日正午、母は永眠しました。

一緒に過ごした1日半は早かったような、長かったような。。。。心拍数が徐々に減っていくモニターの動きと、人工呼吸器の音を聞きながら、段々母の死を待っている気がして苦しくなったあの時間。

そして、病院に泊まり込んだというのに、父があまりに憔悴してるので一度休ませようとすべく家に帰ったらすぐ急変して、あっと言う間に逝ってしまいました。

最後を看取ったのは姉でした。家族の中で一番忙しく、母と過ごす時間が一番少なかった姉が一人で母を看取ったのは不思議な縁だなと思います。

死後の母の化粧をしながらその話をすると、納棺師の方に「死ぬ姿を見せたくない人には見せないもんらしいですよ。」といわれ、そうか。。。。私と父には耐えられない気がしたのかなあと思ったのでした。

祈り