ゴールデンウィークの後半3日間は、コンティニュアム・ムーブメントのクラスでした。
踊るヨガとも言われるこのワークを、地味ながら長年に渡って続けて来ています。
子育て中は優先順位がどうしても後回しになってしまい、合宿に参加することはなかなか出来なかったけど、コロナでオンライン開催が普通になった今では、高野山の合宿でしか受講できなかったスーザン・ハーパーのクラスを続けて受けることが出来てこの上ない幸せでした。
ピラティスやヨガに比べると相当にマイナーなこのワークは、呼吸と音と動きを使った体の探求です。
コンティニュアム・ムーブメントに関してはクロニックスチューデンツのウェブサイトに詳しく書かれています。
このムーブメントの良いところは決まったポーズをするのではなく、からだの内側に特定の音や呼吸を使って入っていき、その響きがからだに与える影響をゆっくりじっくり感じていくことです。
今ここで起きている純粋な自分自身のからだの感覚を、ありのままに感じる時間が私がこのコンティニュアムの好きなところ。
あくまでからだが主体であり、自分を支えてくれる床のサポートや空間を感じながら、からだが動きたいようにゆっくりと体の衝動に身を委ねています。
そこでポイントになるのは液体としてのからだや、空間の中での存在。そして、ただありのままの体を感じる「オープンアテンション」という静かな時間。
今回の3日間は、大きなグリーフ(悼み、死を嘆く)の時間でもありました。
父を看取って見送って東京に戻ってきてから思った以上に忙しく、なんとなく自分に大丈夫と言い聞かせながら日々を過ごしてきた感じでした。
ゆっくりと、自分自身のからだに起きていることにちゃんと時間をとっていないなとは感じていましたが、それを充分感じるのを恐れているようでもあり、ここは自分に優しく無理をしないようにとも思っていました。
クラスの1日目にゆっくりと自分のからだを感じていく時間をとると、父への愛情や、もう会えないことを悲しむ気持ちが痛いほどに噴き出してきました。
横に開いていく「E」の音と、マーラブレスという数珠のように呼吸の音を一音一音落としていくワークを、胸と頭蓋とお腹に響かせていると、体の内側から天岩戸が開いていくように愛と悲しみの混ぜこぜになった光のようなエネルギーが痛いほどに噴き出してきて、涙も出るけど、そのパワフルさに圧倒されてしまい、波にさらわれていくように「今ここ」にいれなくなってしまいそうでした。
涙を流しながら、悼みと痛みに身を任せながら、ただその情動に身を任せていました。
講師スーザンはアメリカでのオンラインでしたが、集まれる人は東京の会場でみんなでワークをやっていたので、生身の存在それぞれが、自分の探求をしているその存在感や音や息づかいがすごくサポートになりました。
1日目が終わって、思った以上に感覚と感情を使い果たしていて、次の日の朝起きた時にはくたくたで電車に乗る気力がなかったため、2日目は自宅で一人でzoom参加をしました。
これもまたよかったです。
二日目は五元素の一つ一つをワークしていったのですが、その中の土のワークで大地のサポートを感じながら、骨に音を響かせてワークするのが自分をグラウンディングさせてくれました。
自分を支えてくれる骨の存在が今まで以上に立ち上がってきて、「私」を支えてくれる「容れ物」であるということが改めてありがたいなあと思いました。
そして気づけば、昨日の感情の嵐は過ぎ去り、どっしりとした安定感と静けさが自分自身を包んでいました。
その日は満月の日でした。
父がこの世を去った日が新月でちょうど半月が経っていたのも偶然ではないのかもしれません。
3日目の朝はさっぱりと生まれ変わったような気分で目覚めました。
3日目は、将来的にコンティニュアムを教えることを目指す人のクラスでもあり、3人組になってそれぞれが一つのパーツを教えます。
興味深いなと思うのは、同じワークを学んでいても興味の方向は結構違うこと。自分がコンティの何が好きで何に興味を持って学んでいるかが教える姿勢を通しても現れてくるのです。うむむ。面白い。
自分が教える役割をするということは自分をよりグラウンディングさせ、シャキッとしますね。
そんなこんなで、からだに取り組む3日間が濃ーく終わって行きました。
やっぱり私は充分にからだを味わうのが大好きです。そしてあらゆる感情も。悲しみも涙も笑いも。時に虚しさや脱力感や。
パワーやエネルギーを感じるのも、パワーレスや充電が切れた感覚も。