ブッダの心

今月も実家に帰ってきました。

ギリギリな感じで一人暮らししている父が、先月からまた一段階落ちていて、その暮らしぶりと姿にハッと胸を締めつけられることしばしば。先月は、私が帰ってきたことを忘れて、夜私の部屋の電気が付いていたのを見にきたけれど、今回は着いた次の日に私が帰るものと思い込んでいました。

「何時か?」と朝起き抜けに聞かれて、最初意味がわからなかった。(何時に帰るのか?と言っていた)

冷蔵庫の食べ物が全然減ってなくて、その代わりに補食のお菓子が減っていて、毎日食べていた卵や納豆を食べることも、どうも忘れているらしい。

一つ一つに胸がぎゅうっとなる。

そして、薬を飲むのを嫌がり、どうしても病院も行ってくれない。

私が子供の頃は凝った料理は全部父が作ってたほどの器用さで、父の天ぷらや、太巻きが大好きだった。

うなぎも捌いて蒲焼にして、食べていた程だった父。

もう料理もできないので、弁当を頼もうか?というと人の作ったものは好かん!とかいうので今まで頼めなかったけど、生命の危機を感じて今回ついに半ば強引に隔日で頼むように手配してきてしまった。

尊厳と生命の狭間で悩みながら、ブッダの説いた生、老、病、死の苦しみがリアルに痛みとなって響く。

誰にでも平等に与えられているこれらの苦しみを今私もこうやって味わっているんだな。

避けられないなら、共にいる。痛みと共に共にいる。

本人の望むように、人生の最終の折り返しを伴走しながら、胸をチクチク痛めたり、夜中に目覚めて泣いたりしながら。

そうしながらも、朝焼けの美しさや、季節のささやかな収穫物を父と分け合いながら、まだまだ笑ったりも出来る幸せを噛み締めながら。

そうやって過ごせる日々はかけがえのないものに違いない。