Stay home 近況など

Stay home 近況など

今日は満月ですね。昼間風がつよかったせいか、月がきれいです。みなさんいかがお過ごしですか?

ナンディルームのクライアントさんや、友人たちや、今までお会いしたことのある縁のある方たちの顔を思い出して、無事であるように祈っています。

私はといえば、こんな余裕ある日々久しぶりです。

ゴールデンウィークって温泉とか山歩きとかしたくなりますが、Stay homeでのんびりしています。

といっても細々とですがセッションはしていますが、例年よりかなり少ないので、その分家にいることが多いのです。

だったら掃除とかすればよいなとか思うけれど、そういう気にもあんまりなれず、やはりバイト先が休業中で、家にいる大学休学中、自分探し息子(20歳)と家族ごっこ?してます。

先日「ご自由にお持ちください」でもらってきた「モノポリー」を昨日は二人でやりました。ボードゲーム、、、、二人で楽しいのか???って疑問もありつつも、もうこれがめちゃ面白かった!

あっという間に2時間以上やってた!モノポリーって初めてやったけど、「世の中は金次第だぜ!」っていうすごろくゲームで、土地を買ったり、そこに家を建てたりして、人の土地や電力会社や水道局!に止まると、お金払わなきゃいけなくて、今のコロナの現状とシンクロすることもあるような、、、。

ゲーム上ですが不動産って儲かるのね、、、。息子はホテル建てたり、土地買ったり、入った分だけどんどん使っちゃうのは、日常生活と同じでした!

最後は私が破産して負けました。。。

2人でひーひー笑いすぎて、かなり免疫力上がった気がします。。。

今日は午後早めに帰ってきたら息子がベランダをちょこっと片づけて、そこに椅子を置いたりして雑然としていたベランダがそれだけで居心地が良くなってました。

なので気を良くして久しぶりにチャイをいれました。

2人でのんびりチャイタイム。片づけられない息子を叱ってもうまくいかないのだけど、こんな風に居心地の良さを味わうと、張り切って片づけようとするから人間ってやはり自発的な動きの生き物なんだなあと。

小さくても、ほんの些細なことでも、全ての人にホッとするひとときがありますように!

チャイ

 

するすると

するすると

現在休学中のドラ息子(20歳)が熱を出した。

この時期、必ずお約束のように熱をだすのです。

そして大体熱があって具合が悪くなると、布団の中で「苦しいよ~~、たすけて~~」って感じで唸りだすのですぐわかるのです。

朝方あまりに唸るので、バイオをやるため頭に触れる。そんなに熱くない。熱はそんなに高くないけど、とにかくゾクゾク嫌な感じらしい。

バイオダイナミクスでは、患者と術者がハートとハートで共鳴して、すでに起きている治療に参加するというのだが、触れた瞬間に息子のハートがぱかっと開いて、するすると必要な場所に連れていかれ。

そして頭の中心がばばばっと熱くなって、「熱い~~」というと、ドバドバ汗が出てきた。

それがあまりにするすると、短時間(2分くらい?)で起きたので、驚いてしまった。

子供の頃は、ちょっと具合が悪いと「かーくんやって~~」っと触られたがってた息子も、今では嫌がってやらせてくれないのだけど、こうやって熱を出したときは素直にやってもらいたがる。

熱がこもってなかなかでない時に、こうやってドバっと熱を出すのに、第3脳室のイグニッション(着火)が有効なのだけど、こんなに短時間ではっきり、こんなに熱くなったのは初めてだった。

そして触った瞬間にもうハートがぱかっと「やってくれるのね、待ってたよう~~」って感じで開いたのも驚きだった。。素直。。

先日の子供のバイオの時に、「こどもは、リージョン(病変)を自分のものだと思ってないので、とってくれるならとって~~、ってとなるけど、大人は、その病変を自分だと思ってるから、なかなか手放さない」という話をしていたのを思い出してしまった。

話はちょっと変わるけど、先日実家に帰った時に2階の大量の荷物の片づけをしていて、今の息子と同じ頃に私が書いていた日記を発見してしまったのだけど、好きな男の人の事と、人間関係と、当時アートを学んでいたのでその事と、とにかく「えっ??」ってぐらい悩んでいて暗かった。。。

人の内面はわからないけど、息子を見ていると、なんか素直だなーと思う。あのハートがぱっかり開いているような感じとか。。。

写真は先日の成人式の写真。自分で古着を買ってきて、こだわりの成人式のスーツらしい。私は自分も成人式なんて行ってないしノータッチだったんだけど、当日に「かーくん(私のこと)成人式にお祝い金くれないの?」と言われて、「えっ?そんなもの親があげるんだっけ?」というと、「成人式、お祝い金、親でググって。」といわれ、googleで調べて「必ずしもあげるわけでもないよ」というと、「成人式、親、お祝い金、金額でググって!!」と必死の形相でいわれ、その迫力に気おされてついお祝いお金を渡してしまったのでした。。。。

 

成人!

成人!

金曜で息子が20歳になりました。

遂に大人になってしまった息子。。。

誕生日の日は、息子と二人でギリシャ料理を食べながら、合法的にビールを飲みました。

息子と飲む日が来るとは!

一人で子育てして、偉いね、、とかよく言われますが、全然一人ではなかったなと。

親は福岡の遠隔地だったので、日常的に子育てに関わってくることはなかったですが、近隣の友人はじめ、保育園で出会ったママ友にも大変お世話になりました。

国立市は「ひとり親ホームヘルプサービス」なる大変素晴らしい制度があって、子供を家で面倒みてくれたので、色々勉強してた時代、子供が小さい時は大学生のお兄ちゃんに遊んでもらったり、ご飯作ってもらったりしていました。

耳にピアスをごちゃっ、ってした若者がやって来た時があって、ちょっとビビったのだが、帰ってきたら、洗濯物がめちゃキレーに畳まれていて、焼きそばのクオリティが高すぎた。。。

彼のご両親は障害を持っていて、小さいころから家事をしっかりやってきたのだという。

先生を目指す大学生のお兄ちゃんのことが気にいって、いつも彼に来てもらっていたときもありました。

彼の家では節分にお菓子を撒くらしく、一度節分の日にそれをやってくれたことがあって、それ以来お菓子撒きが節分の行事になってます。

彼は、徐々に人生に迷い出し、悩みを聞くこともあったのだが、今や我が息子が同じように人生に迷っている。

沢山の人に支えられて、励ましてもらって、息子に優しくしてもらって、今がある。

息子の名前「タシ(太志と書きます)」はチベット語で吉兆という意味なのです。

チベットでは挨拶が「タシデレ」っていって「あなたに吉兆を捧げます」というような意味で、相手に吉兆が来ますように。的なニュアンスを含みます。

なので、「タシ」という名前を誰かが呼んでくれることは、私にとっては生きとし生けるものへの祈りのようなものなのです。

息子は大学生だけど、このまま大学にいてもいいのか?とか、自分の本当の道はなんなのか?ということに悩みながら生きてます。

悩みがないふりなんてせずに、迷っているということを言えるってすごいなって思います。

息子や私に関わってくれた全ての人に感謝します。

 

祈り4

祈り4

母のグリーフ(悼み、悲しみ)のワークを出来たのは、奇しくも私の誕生日の日でした。

その日を、自分の生まれた日というよりは、母が私を産んでくれた日と言う風に私には感じられました。

肉体があって、この世でこの地球上でいろんな旅をさせてもらえる。悲しみも喜びも体験させてもらうのは、母が私を産んでくれたからなのだと思うと、その日の朝は感謝の気持ちで一杯でした。

生きているときには、そんな風に思ってはいなかったのだな、、、と思うと申し訳ない気もしました。

その日はGAP(ゲシュタルトアウェアネスプラクティス)の経験者だけの1ディで、私は自分がじっくりと充分に時間を取って母に向き合う必要を感じていました。

自分自身の感覚にゆっくり触れていくとすぐに、胸が痛くてちぎれるようで涙がどんどん出てきました。

私が最後に見た母の姿は、人工呼吸器を挿入された母の姿でした。

その姿の痛々しさがどうしても頭から離れず、母を思い出すときはその姿がフラッシュバックしてきて、元気だった時の母の姿や、笑顔を思い浮かべることが出来なくなっていたのです。

GAPのやり方では、何にでも座布団に置いて直接話しかけることが出来ます。

その人(人以外でも、動物、建物、景色、夢の中に出てきたものでも、死者にでも)を目の前の座布団に置いて直接話しかけるという行為は、お互いの間に直接的な関係が出来ます。

母を目の前の座布団に置いただけで、ごめんね。。。という言葉と思いがあふれてきて、どんどん涙が出てきました。

母をあんな姿にはしたくなかった。自分の力でもっと元気にしてあげたかった。。。

それが叶わぬまま、母を逝かせてしまったことは、私の中の痛みとして大きく残っていました。

辛い気持ちの自分を一旦おいて、今度は母の座布団に入りました。

GAPではそれをenteringといいます。(自分の考えや見方を一旦自分の席において、座布団に置いた存在に入ること)

母になると、その座布団の上の母は人口呼吸器を挿入した母ではありませんでした。

若い時の母のように活力にあふれている母ではなく、老人になった母でしたが、穏やかでした。

その母は、私に向かって、「ひろみ、ごめんね、お母さんも死ぬとおもわんやったから、びっくりした。からだに気を付けて、風邪ひかんようにね。」

と言ったのです。

思えは母は私の心配ばかりしていました。若いころは、その心配がうっとうしかった。病気になって、自分のからだがしんどいときも、しばらく電話しないと、風邪でもひいているのじゃないか?と心配ばかりしていました。

座布団の上の母は、そんな母でした。

自分の席に戻って、その母の声を聞くと、今度は温かい涙があふれてきました。

そして、私の中の母が、生き生きした母に変わりました。

今も、時々空の上に母を感じると涙がでます。

料理や片付けがめっぽう苦手で、プライドが高く、人の目を気にして、すぐグダグダ悩む。

癇癪を起したり、わがままを言ったり、なんとも人間らしく困った母でしたが、母は私の大事な「お母さん」でした。

命に終わりがあることは、知っていたけれど悲しいものです。

呼吸が苦しく毎日大変だった5年間、本当にご苦労様、大変だったねと言いたいです。

治癒ということの何が正解か、未だに私は探求中です。

ただ、母が死を持って見せてくれたものが、まだ言葉や形にはならないけれど私の中に息づいています。

それを私が、命を輝かせ生命を全うしようとする、生きとし生ける誰かをサポートするために使えるように、この両手を使って、また精進していこう。ね、おかあさん。

 

祈り3

祈り3

母がいない日常生活が始まりました。

私たち家族はそれぞれの場所で、それぞれの悲しみを持ちつつも、それぞれの暮らしを始めました。

最初のうちは日に何度も母を思い出しては悲しみがあふれてきて、歩きながらやご飯を作りながら涙を流していました。

幸いだったなと思うのは、私にとって泣くという行為が友達だったこと。

この痛みと共にいる時間をたっぷりと取りました。

時には、母にもっとこうしてあげればよかったという思いや、悲しい思いをさせた時の母の顔が浮かんできて、そういう時は、胸が苦しくなりました。

胸が苦しくなったときはどうしたらいいの?と言っていた友人の顔が浮かんできて、胸が苦しいというのはこんなしんどい感覚なんだなあと、改めて痛みの苦しさに対する共感が湧いてきました。

時々は、道々の大きな木に寄りかかったりして、木に悲しみを慰めてもらったり、野菜を売っているところの犬のお友達を撫でながら、子供の頃によくやったように「お母さんが死んじゃってね、悲しいの・・・」と話を聞いてもらったりしました。

父の、葬儀の時の憔悴っぷりが心配で後ろ髪を引かれるように帰ってきたのですが、その2週間後また実家に戻ると、父なりに一人の時間をなんとか生きていました。

部屋がすっきりと片付いていて、仏壇にもちゃんと花が飾られているのをみてほっとしました。

毎日きちんと水とお茶をあげ、線香も絶やさず、母を悼んでいました。

携帯などいらん!という父を説得し、新しく携帯を契約し、実家にいる間に対面で「もしもし」とか糸電話のように練習したおかげで、なんとか使えるようになりました。

私が電話出来ない時は、息子が協力して電話してくれたりして、なんとか毎日途切れず話せてます。

温かくなってきたので、毎日草取りもしているらしい。

本当に庭があってよかったなと思う。祖父が開墾して、柿の木や梅の木を植え畑を耕してきた土地は、今父に引き継がれ、色々丹精込めて愛してきた場所。

足腰が弱ってきて、なかなか外に出れなくなってきていたのだけど、一人になってまた少しづつ外仕事をするようになってきたらしい。

イノシシが出てからすっかり畑はやらなくなっていたけど、私が「トマト食べたいから、トマト植えて~~!」とお願いしたら、一畝を起して植えてくれたらしい。きゅん。

そして私も、やっと自身のグリーフワークをやりました。

それはまた次回。

 

 

 

祈りその1

祈りその1

 

3月1日に母が急逝しました。四十九日を終え、母はお墓に収まりました。

天気が良い時には霊山の英彦山も見渡せる、眺めの良い場所に母の遺骨を納めて、ひと段落着いたと同時に、もっと頻繁に帰ってあげればよかった。セッションしてあげたかったという後悔があります。

この思いと共に、今からの人生を生きていくのでしょう。そして必要な誰かのためにこの両手を使って行きます。

自分への備忘録として、徐々に母の死のことを書いていきたいと思います。

2月27日の夕方、ケアマネさんから母が救急搬送されたという一報をもらったときは、まだ自分の母がこの世からいなくなるという実感がわきませんでした。

自転車で移動しながら、ありのままの現状を話してくださいとお願いすると「救急隊員の方が心臓マッサージをしていました」というので、すぐ家に帰ってなんとか病院に連絡をとると父が一言「もう脈が止まりよう」というので、とりあえずのものをバックに詰め、姉と息子に電話しました。

ベランダから見送る息子が、「まだ死ぬと決まったわけじゃないから」と言ってくれました。

実家は福岡なので、空港に向かいながら震える手で予約を取り、その日の夕方以降のクライアントさんに片っ端からメールをしていきました。

飛行機の中では、スチュワーデスさんに、母が危篤だから一番に出して欲しいと言うかどうかをずっと考えていて、でも結局言えませんでした。

空港を出て、タクシー乗り場まで走って「OO病院まで」というと、察した運転手さんが「急ぎですか?」というので「そうです」と言うと「じゃあ、近道をしますね!」と言ってくれてそれを聞いた途端に涙があふれて止まらなくなりました。

タクシーの中でずっと泣き続けている私を可哀想に思ったのか、雨の道をぶっ飛ばしてくれた運転手さんは、病院の非常口までついてきてくれて、しかも端数をおまけしてくれました。

ICUに着くと母は生きていました、しかし心臓が80分も停止していたせいで、脳死状態、意識はありませんでした。

母は5年前から原発性呼吸不全という原因不明の呼吸苦を患って在宅酸素をしていました。

その日は、週に1度のリハビリデイで、きついから行きたくないと言ってたそうですが、3月は私が帰る予定だったのでお休みするから頑張って行こうといって、ディサービスに行って具合が悪くなり、自宅に帰った時はもうタクシーから降りることが出来なかったそうです。

その日から2日間死にゆく母と、バイオをしたり、清拭を看護師さんと一緒にしたり、泣いたりしながら過ごしました。

田舎のICUは下が池になっていて、大きな窓から山や木やその池が見渡せるそんな気持ちのよい場所でした。

そこで、死にゆく母にバイオをやっていると、今までの母には起こりえなかったような金色の輝きを感じて、また涙が出てきました。

バイオダイナミクスというこの施術を通じて、母と交流できる手段があってよかったと芯から思いました。

そして次の日正午、母は永眠しました。

一緒に過ごした1日半は早かったような、長かったような。。。。心拍数が徐々に減っていくモニターの動きと、人工呼吸器の音を聞きながら、段々母の死を待っている気がして苦しくなったあの時間。

そして、病院に泊まり込んだというのに、父があまりに憔悴してるので一度休ませようとすべく家に帰ったらすぐ急変して、あっと言う間に逝ってしまいました。

最後を看取ったのは姉でした。家族の中で一番忙しく、母と過ごす時間が一番少なかった姉が一人で母を看取ったのは不思議な縁だなと思います。

死後の母の化粧をしながらその話をすると、納棺師の方に「死ぬ姿を見せたくない人には見せないもんらしいですよ。」といわれ、そうか。。。。私と父には耐えられない気がしたのかなあと思ったのでした。

祈り