事件に思う。

合宿に言っていた息子が帰ってきて、最初にしゃべったのが相模原の施設での殺傷事件。

子供にとっても、強烈な事件だったのでしょう。犯人の異様さにショックを受けたみたいでした。

無抵抗に殺されていった命を思うとやりきれない思いです。

きっと、痛くて、怖かった事と思います。

怪我を負った人や、当事者ではないにしてもこのニュースを知った障害を持つ人達も、さぞかししんどい思いをしている事と思います。

どういう経緯で犯人が、重い障害を持つ彼らを殺すに至ったかは定かではないけれど、人や社会を破壊するほどの狂気がどう作り出されていったのか、その闇を思うとそれにも胸が痛みます。

この事件を受けて、セキュリティをもっと強化せよ、とかになってしまうのかもしれないけれど、介護者、支援者、家族が、社会との接点を失ったり、萎縮してしまわないかというのが心配です。

もう十分、気を使っているのになあと。

電車の中で子供を連れているお母さんの気の使いっぷりや、障がい者の施設が出来るというと、反対したり、実際、まあ畑に入ったり、お店の商品を勝手に食べちゃったりするのだけど、そこは地域ぐるみで支え合う姿勢が大事なのだよなあ。と思います。

障害を持っていても、社会の一員として、地域や家族とつながりを持ちながら、お互いに支え合って生きていくのが理想だと思うのですが、この国はそこまでの成熟はしていないのだなあと思います。

社会の成熟を思うとき、欠かせないのは経済の発展よりも、優しさと寛容さをどう実現していくかだと思います。

そのためにも、福祉の充実と、教育は大きなキーワードだなあと。

教育といっても、愛国心とか、アベノミクスとか言ってる場合じゃないでしょ!と思いますが。

GAP(ゲシュタルト・アウェアネス・プラクティス)のワークで会った人が少年院で「気づき」を取り入れているというのを聞いて、そして少女たちがそれによって少しづつ変化していくというのを聞いて、感動しました。

自分自身の感覚に気づいたり、何を思って何を感じているのかを、ゆっくり時間をかけて気づいたり、それを人に聞いてもらう機会をみんなどれだけ持っているのだろう?

そして、自分自身のありのままをそのまま受け止めてもらいえるという体験をするということが、どれだけ成長にとって必要なことか!と思います。

その体験があれば、「障がい者は生きてたってしょうがない」みたいな考えにはならなかったのかもしれないと思ったりもしますが。

自分自身のあらゆる部分を受け止められる寛容さと、外側に対する寛容さはきっと繋がっているに違いないと思うのです。

今日は、都知事選。選挙に行ってから、リンパテクニックのクラスに行きます!